お侍様 小劇場

   “ふたりでお留守番” (お侍 番外編 23)
 

 
 夕立ちといえば夏の季語であり、蒸し暑い真夏の日中、晴れ渡った空にムクムクと巨大な入道雲が沸き起こり、ザッと勢いのある雨を落とす、いわゆる“にわか雨”のことを言うのだが、今年は特に、とんでもない豪雨が奇襲をかけて来る夏のようで。ここ数年に特に見られる、ほんの数分で盛り上がった積乱雲がどさりと落とす途轍もない雷雨を指して、流行語になりそな勢いで飛び交っているのが“ゲリラ豪雨”という言い回し。暑いのもまた季節の恵みと考えて、風鈴の音を楽しんだり、朝顔やツタを壁に這わせて直射日光を避けたり、はたまた打ち水の気化熱で涼しい風を起こしたり。そんなアナログな工夫で凌いだり楽しんだりした、どこか風流で情緒があった時代と違い。緑を刈り取り、地面に蓋して、それでは風が起きないからとエアコンなんぞに頼ってる。そんな今時のあれこれが齎した、温暖化とヒートアイランド現象による、立派な“反動”なのだそうで。

 「ウチはあんまり、エアコンには頼ってないんですけれどもね。」
 「そんなこと言ってると、またぞろ勘兵衛さんに叱られますよ?」

 今日もお暑いですねで始まった、垣根越しのご近所様へのご挨拶。庭と庭が接している同士というだけじゃあない、どちらもちょっぴり変則的な“男所帯同士”という共通項もあって、何かと助け合う機会も多い、仲のいいご家庭同士。何の、今時 流行のシェアリングのはしりです…なんて、よく判ってないくせにそんな言いようをしていたのが、林田平八という腕のいいエンジニアさんで。片山モーターズの工房に転がり込んで はや五年。童顔をなお幼くみせるよな、温厚そうな笑い方をし、話しかければ気さくなお返事も返って来るものの。まだちょっと、どこか他人行儀なところも抜けないお人。まま、あんまり干渉し合わないのが、ヘイさん曰くの“今時”なんでしょうしねと。くすすと微笑ってそれ以上は踏み込まないでいて差し上げている、お付き合い上手なお隣りの奥さんこと、島田さんチのおっ母様、七郎次というお兄さんへ、

 「聞いてますよ?
  炎天下だってのにうっかり帽子もかぶらず庭いじりをしていて、
  あやうく脱水症状起こすとこだったって。」
 「あいたぁ☆ もうお聞きでしたか。」

 家人らへは、やれ外出前に水を飲みなさいだの、汗をかいたら小さいのでいいからクッキーをつまみつつスポーツ飲料を口にしなさいだのと、相変わらずの至れり尽くせりを忘れない七郎次だってのに。そのご当人がうっかりしていたその報い、貧血まがいの立ち眩みに襲われ、その折には彼しかいなかった久蔵が…そうだということ慣れぬ者にはなかなか判りにくかったらしいが、どうしていいやらとそりゃあ慌てふためきながらも、掛かり付けの医師殿を呼んで難を逃れたという騒ぎがあって。やだなあ、何で御存知なんですようとの苦笑をした金髪碧眼のおっ母様。北方の血筋を思わせる白い肌に淡い色合いの髪や瞳をしておいでで、この玲瓏なお姿では成程 暑いのには弱かろうと、誰もがあっさりと見抜いての案じてしまうのも無理はなく。

 「あ、判った。久蔵殿が告げ口しましたね。」
 「おや、そんな言いようはあんまり気の毒ですよう。」

 だとしたって本気で怒っちゃあいないのが判っていながら、平八の側でも口調のトーンを合わせてやって、確かに訊いたのは久蔵さんからですがねと、否定はしないお返事を返す。

 「アイスノンとか氷嚢とか、どこに売っているのかと訊かれたもんで。」

 いくら勘兵衛さんがお留守だからったって、シチさんが健在ならそんなことをあのお人が外の人へ訊きゃあしないでしょう? そうと続けられては、

 「ありゃりゃあ。」

 返す言葉もないというもの。ウチに買い置きがありましたのにねと、これは口にまで出しはしなかった七郎次だったけれど。そして、平八にしてみても、
“シチさんならたんと買い置きしておいででしょうにって、訊かれた時に思いましたってば。”
 ですよねぇ。
(苦笑) そして、そうと言った平八が、ちらりと自分の肩の向こうを透かし見やるような様子をして見せたので、何だろかと肩越しに振り返って見たれば。リビングから庭へ出られる大窓のところ、その次男坊が立っており、こちらの様子を見やっておいで。
「まだ心配されてますね。」
「みたいですね。」
 これはさすがに人には言えないが、あんまり無理をすると勘兵衛へメールするぞとまで言われており。そして、案じられるのには慣れがなくての擽ったいか、
「ヘイさんのところへおすそ分けをしに行くって言っておきましたのにね。」
 綺麗な眉を下げつつ、そんな風に言ってから。自分の胸元へ抱えていた布巾のかかった小ぶりの鉢を白い両手で“どうぞ”と差し出す。そんな様相から食べ物らしいとは判ったが、
「? なんですか? …あvv」
 はらりと退けられた布巾の下から顔を出したのは、茶褐色の殻のような堅そうな皮に包まれた、丸ぁるいものが幾つも。

 「ライチじゃないですか♪」
 「はい、お嫌いじゃあなければ。」
 「嫌いだなんてとんでもないvv」

 かの三大美人の一人、楊貴妃も大好物だったとされている果実の女王。愛する彼女のためにと、玄宗皇帝は産地までの何千里もの道程を、騎馬にて八日八晩かけて運ばせたという伝説まで残っており、

 「大好きなんですよ、これvv」

 お酒もあるでしょう? え、そうなんですか? ええ、パライソっていって、三角の変わったボトルに入ったリキュールなんですが、風味をそのままに生かした甘いお酒です、と。よほどにお好きか、そんなおまけをちらりとご披露した平八さん。冷凍ものなら今なら年中出回っているが、

 「皮つきということは、もしかして生ですか?」
 「ええ、勘兵衛様が出先から昨日届けて下さって。」

 旬は六月から七月にかけて。中国は福建省や広東省、はたまた台湾で穫れる生果は、香りが濃くて甘みも深く、格別とのことで、

 「ということは中国においでなんですねぇ。」

 五輪で沸いてて賑やかでしょうね。いや、仕事で向かった分には何かと規制が増えてて大変だとか言ってましたよなんて、いかにも今時の話題で沸いてから、

 「これ、久蔵殿も大好物ですのにね。
  箱を開けてこの姿でお出ましになったのを見て、
  始めは一体何なのかが判らずにいらしたんですよ。」
 「おやおや。」

 熱中症のことを“告げ口”された意趣返しか、殊更に声を低めて内緒話めかしての、そんな言いようをした七郎次であり。だがまあ、

 「でも、この中にあんな可愛らしい実が入ってるだなんて、
  スィーツとして剥いて出されたものしか知らない人には判りませんて。」

 ジャガ芋みたいな外観のキウイの丸ごとを初めて見た人は、あのきれいなエメラルドグリーンがこの中にあるのかと怪訝なお顔になるそうだし、これとは微妙に次元が別かもだが、朝掘りタケノコを皮つきでいただいてしまい、どうしたらいいもんかと困ってしまう新妻は多かろて。(ねぇ? 某さまvv) 透明感のある白くて柔らかな瑞々しい果肉。このいかつい外観からあんな可憐な代物を想像しろというのは、ちょっと無理な相談かも知れず、

 「勘兵衛さんを剥いたらシチさんが出て来たようなもんですからね。」
 「…ヘイさん。」

 その喩えはちょっと…と。即妙ではあったけれど、久蔵殿にはくれぐれも言わないようにと念を押すおっ母様。…そりゃあまあ、ねぇ。

 “食欲が落ちたらどうしますか、ですよね。”

 あらためてビジュアルに想像してみたか、私もゴロさんには言わないように致しますよとの苦笑を返し、では有り難くと受け取った平八へ。会釈を見せてから母屋へ戻れば、

 「…。」
 「おや、すみません。」

 一旦どこぞかへ引っ込んでいたらしい久蔵が、絞ったタオルを持ってリビングへ出て来たのだが。随分とひんやりするところから察して、わざわざ氷水で濡らして絞って来てくれたのだろう。うわあとっても気持ちがいいですよと、額や首条に当てて感じたその涼感へ、七郎次が嬉しそうに頬をゆるめれば、

 「…。////////」

 もっとずんと小さな子供が褒められたかのように、細い顎を引いてのうつむき、含羞みながら視線を逸らすところが何とも可愛らしいお人であり。今年のインターハイでもチャンピオンとなったばかりの剣豪には、とてもではないが見えやせず。そんな微笑ましい素振りに、口許の笑みをなお深くしたおっ母様、

  ―― ありゃりゃあ、久蔵殿の手がこんな冷たくなってしまいましたね。
      平気ですって?
      でも、久蔵殿はなかなか手足が暖まらないお人でしょうに。

 どらと手を取り、ソファーへ並んで腰掛けて。さっきまではタオルを当てていたおとがいの辺り、大事そうに両手でやわく広げさせた白い手を、そこへとそおと伏せさせる。高校生の彼よりも十は年上の七郎次だが、色白なだけじゃあなく、肌のあちこち、まだまだ瑞々しくも柔らかいところがたんとあり。体毛も薄いのか、髭を当たってるところなぞ あんまり見ない おとがいやら首条やらも、久蔵と変わらぬほどにしっとりと優しく柔らかいまま。

 「そっちの手はいいですか?」
 「〜。///////」

 平気だと言っていたくせに、母上との触れ合いは捨て難いのか。もう片方の手もそっと差し出すところがまた可愛くて。じゃあ交替と、次の手と入れ替えて同じように暖めて差し上げれば。紅の眸を潤ませるようにして細めての、嬉しそうに含羞んで見せて。普段の凛としたところはどこへやら、そんな様子が七郎次の側をも和ませて下さる愛らしさよ。

 “勘兵衛様がおいでではないのが、寂しくておいでなんでしょうね。”

 日頃は…こういう判りやすい形では、七郎次にばかり懐いて見せる彼だけれど。例えば昨日、勘兵衛からの荷が届いたおりも、剥いて見せたライチの愛らしい実へ一通り驚いたその後で、包装紙の伝票の送り主の居所を、しきりと気にしてか眺めてた彼であり。平八が察したように、包み紙には中国の某所からという伝票がしっかと貼られてあるけれど。筆跡も間違いなく、勘兵衛のそれになってはいるけれど、

 “本当は…もちょっと奥地においでですのにね。”

 とある地域の…内戦のさなかという危険な戦地の只中に向かっておいで。そう、普段勤めておいでの商社からの出張じゃあなくて、彼の帯びている“絶対証人”というお役目から請け負った密命を果たすべく。旅程の途中でアリバイ工作を担当する別なお人と入れ替わり、今頃ご本人は別の場所におわすはず。

 “何をどうという内容は、お話しして下さらなんだけれど。”

 七郎次は部外者ではないのだが、それでも…だからこそ、ひどく案じてしまうのではないかと思うのか。任務の詳細どころか行き先だって、はっきりとは教えて下さらないのが常の御主であり。でも、行き先や期間を曖昧にすればするほど、それだけ危険なのだなと察してしまえるようになった。期限を大体でも“いつまで”と断言出来ないのは、見通しを立てられぬほどの いかに難事かを指していようし。どの辺りへと告げてしまうと、海外のニュースなどで何か報じられるたびに いちいち神経を尖らせてしまわぬかと思うからだろが、引っ繰り返せば…隠しおおせぬような事態へ至りかねぬことだと言っているようなものではなかろうか。

 「…。」

 至近になって向かい合う端正なお顔。表情は乏しいがその分、潤みや伏せられようが微妙な感情を伝えてくれる、綺麗な紅玻璃の瞳へと微笑いかけ、

 「勘兵衛様が帰って来られたら、うらやましがるかも知れませんね。」
 「…。////////(頷)」

 すぐ傍らのローテーブルの上には、先程プリントアウトした写真が何枚も散らばっており。緑豊かな郊外や、白い雲が浮かぶ青空と藍の海を背景にした、彼ら二人のスナップがメイン。二人で海辺までのドライブにも行ったし、夜景の写真は先週観に行った花火大会の折のもの。まるで寂しさを耐えるよに、ただただ家に引きこもり、じっと案じているばかりじゃあいけないと心掛けるようになったのは、思えばこの可愛らしい同居人が増えてから。元はといや彼への気散じのつもりで始めたのだけれど、不在の間のことをあれこれ話すと、勘兵衛の表情もそれは穏やかに和むと知って。ああそうかと遅ればせながらに気づいた七郎次であり。こちらも夏を堪能しておりましたよと、つつがなく元気でいるのが、楽しくしているのが一番の奉公になるという理屈に、

 “ドラマや映画なんかで切々と紡がれてたことなのにね。”

 我が身へはなかなか反映させられないこと、いやさ、気がつけなかったことであり。そんなところでも助けられておりますねと、洗練されて見える容姿と裏腹、無垢で真っ直ぐな次男坊の存在へ、あらためての感謝をしてしまうおっ母様だったりし。どこやらからか聞こえる蝉の声に紛れさせ、

 “こんなして二人掛かりで待っているのですから。”

 無事に戻っておいでにならないと知りませんからねと、何だか妙な脅し方めかして。どことも知れぬ空の下、奮闘なさっておいでだろう御主へと敬慕の想いを馳せるのも忘れぬ七郎次なのである。






  ◇  ◇  ◇



 別名“証しの一族”と呼ばれし島田の家へと、依頼が来るもの全てに宗家惣領の勘兵衛が出陣する訳ではなく。相当に手古摺りそうなもの、若しくは『御書』へ書き足すこととなろう規模のことへだけ、直接まかりこすのだが。ということは、万端完了せしとの結果を報告するのさえ難しいこと、彼が直々対処し、最低でも“そこにいたこと”によって見届けねばならぬほどとする、並大抵ではない事案だということにもなろう。どこの国、どの組織へも偏った加担をしない立場はそのまま、常からの提携態勢をどことも結んではならぬことを余儀なくさせる、どこまでも“中立”な一族だから。そんなせいか、時には…とんでもない大国の組織が絡んでいよう代物に対処せねばならぬこともある。とある国の大きな疑獄事件にかかわる証人がいて、だが、当人はそれと知らぬままなのをいいことに、遠い紛争地域への派兵の中へと組み込まれてしまって今は戦火の只中だとか。そんな人物を何がなんでも見つけ出しての連れ出して、本国の法廷へ立たせること。簡略に言やそういう作戦行動の、精鋭部隊の一員にという要請があってのこたびの任であり。そんな段取りを組んだからには、その“保護対象”とやら、相手陣営にしてみれば、

 ―― 生きて帰って来られては困る人、に違いなく。

 戦場での死なら合法的な処理がどうとでもこなせようという、いささか乱暴な手を取ってでも早急にその存在を摘み取りたいとする相手の所業なら、どんな残酷な妨害が潜んでいるやもしれず。極端な話、任せたはずの背中を味方から撃たれる恐れも大有りだけに、一刻も早く身柄確保を遂げねばならぬ。そしてそんな人物を救い出さんとする彼らもまた、全方向に敵がいるところへ乗り込むようなもの。相手の手先は恐らくのきっと、計画を他者へも知られたことであっさりお手上げになるような、殊勝な手合いであるはずがなく。邪魔だてするなら諸共にと、こちらまで消そうとするは明白で。そんな手合いを敵に回しての、言わば別口の戦争をこなさねばならぬ厄介な任務。やはり灼熱の真夏の陽射しが照りつける中、砂塵舞う風にまみれつつ、どこから凶刃が飛んでくるやも知れない緊迫感にぎちぎちと、朝から晩まで包まれて過ごして。こちらの接近を察して手筈を急いだそれなのか、予想だにしなかった“爆破事故”に見舞われた野営地から、一人取り残されてた保護対象の彼を拾い上げたのが先週の頭。本国へ戻しゃあ戻したで、依頼先の組織の担当者とも…言っちゃあ悪いがどう情勢が変わっているかが不明だったのでと、公判当日までは接せぬようにと用心を重ね、接近する暗殺者を数名ほど薙ぎ払い。それらを楯に“証人保護システムの発動”という確約を取りつけさせた上にて、証人台へと無事に立たせたところで…やっとのことで任務終了。日頃の平和な生活からはぐんと掛け離れた、非日常極まりない場へ身を置いての“本業”をこなし遂げ。全身弛緩させての安堵のうち、半月ぶりにて戻った我が家はといえば、

 「…平和、だ。」

 あまりにあっけらかんと。出て来たときのそのままだったのが、勘兵衛にはいっそ鮮烈だったほど。手入れの行き届いた芝生が青々と広がる庭先には、たった二人しかいなくとも小まめに洗濯を欠かさぬ家人が干し出したのだろうシーツやバスタオルが、夏の日盛りの下、風に煽られてははためいていて。庭いじりが好きなくせ、玄関先には泥ひとつなすられてはなく。そんな清潔な空間に、緑も清かな軒しのぶをあしらった風鈴飾りが下がっているのが、何とも小粋で涼しげだ。

 “これは…前には無かったな。”

 自分が不在の間に、骨董市か植木市にでも出掛けて買ったのだろか。風が来ないところにとの工夫があるのか、りんりんとうるさくしてご近所迷惑にならぬよう、考慮されてもいるらしく。そんな風情へ視線を取られつつ、門柱に取りつけられたインターフォンの呼び出しを押そうとすれば、

 「島田。」

 そんなお声が先にかかってしまい。おややと振り返れば、真夏の住宅街の昼下がり、人の行き来も極めて少ない道端に、お使い帰りかトートバッグを肩にした久蔵が立っている。今時の子はシャツといや裾を出して着るものだろうに、バックルつきとちゃんと判るベルトをきっちり締めての、襟元のボタンも一つしか外さぬ、相変わらずに折り目正しき格好の彼は、
「…。」
 よくお帰りとも言わぬままだったが…その代わり。勘兵衛の広い背中へ両の手を伏せると、そのまま容赦なくぐいぐい押して、急げ急げと門扉の中へと押し込もうとするばかり。早う入らぬか上がらぬかとのその所作に、お帰りなさいの意も酌めて、
「判った判った。」
 苦笑が絶えなかった勘兵衛が、もっと困ったような顔となったのが、騒ぎを聞いて玄関まで出て来た七郎次との対面であり。

 「あ…。」

 驚かそうなんて気持ちはない。ただただ早く、一刻も早く帰りたくてと気を取られ、何の連絡もしなかったまでのこと。それがいつものことならば…立ち尽くしたそのまま、泣き出しそうな顔をされるのもまた いつものことで。久蔵の手前とこらえてしまうの、次男坊もまた察するものか、いつの間にやら姿を消している素早さよ。

  ―― お帰りなさいませ。
      ああ、ただいま。

 採光のいい明るい玄関だからして、ご当人はもとより、スーツも手荷物にも傷はないと、五体無事なのは見ればそのまま判ること。そちら様こそ、あまりにあっけらかんとしておいでなものだから。

 「…。」

 そこに本当におわす君なのか、触れたい手が、だが…何とも出せないらしき彼に代わって。框の上へと上がりがてら、そこへ膝をつく いつものお出迎えも忘れている青年の、嫋やかな身を引き寄せての懐ろへ掻い込めば。そうなってからハッとして、身じろぐ気配、こちらの腕や懐ろ、顎先なぞへ掠める感触もまた愛おしく。ほんの鼻先というほども間近になった、金の髪のつややかさに見惚れながらも、
「…。」
 こっそり持ち上げた手を添えて、うなじにそれを束ねた髪留めを慣れた手際で引き抜けば、
「あっ。」
 その細い線をさらした頬に首にと、くせのない金絲がさらと散り広がる様がまた何とも美麗。

 「勘兵衛様。///////」
 「許せ。触れとうなっての。」

 おいたはなりませぬと、つい見上げて来たお顔もまた愛おしい限り。ほのかに含んだ汗の香も、どうしてだろうか甘いばかりの綺麗な髪を、武骨な指で何度も梳いて。
「あ…。」
 物心の覚束ぬ幼子ではないながら、それでもそんな所作に絆
(ほだ)されたものだろか。微妙に緊張していた強ばりが、ようやっと緩んでの凭れて来て下さった愛しい伴侶の、久々の重みと柔らかさ、これこそが帰還の証しとばかり、しみじみ堪能された御主であったりするのである。勿論のこと、

  ―― お帰りなさい。
      ? さっきも言うたぞ?
      これはまた別のです。

 七郎次の側とて想いは同じ。危険な勤めを無事に済まされたことへとはまた別のもの、自分の傍らへ戻って来て下さったことへの“お帰りなさい”を、こちらもしみじみと告げた女房殿で。断れぬ務めだと判っていたし、きっと戻られると信じてもいたけれど。泣き言もこぼさず信じて待とうとした、堅い決意も信念とやらも。結局は、不安から折れそうになる自身を、叱咤し言い諭すための言い訳にすぎぬと、今になって自覚する。必死になってそれが実現しておくれと念じてた、切望という名のおまじないと変わらない代物で、こうして向かい合う“本物”には到底敵わない。頼もしい胸や腕の質感にくるまれ、男臭くて精悍な匂いと温みにうっとりと酔いしれることの、なんと幸せなことだろか。夢心地になりながら、あんな寂しい想いはもう二度と堪忍と思うもの。そしてそして、そんなお二人であることへ、

 “…まったく。”

 わざわざ伺い見たりはしないがそれでも、あのね? 次男坊殿もまた、安堵の吐息をつきつつも、胸の裡
(うち)での苦笑が絶えなかったりしておいで。うっかりしてもうと驚かされた、先日の熱中症騒ぎにしてみてもそう。人知れず…彼自身にも自覚のないままながら、取り留めのない不安を抱えていた七郎次であったことの、あれこそ判りやすい発露だったのではあるまいか。そういった機微には疎いように思われがちな久蔵だけれど、コトが七郎次にと限るなら、
「…。」
 実を言えば…この家へと来るより前からの、蓄積というものがあったりする。

 『…? シチ?』
 『お邪魔しておりますよ?』

 夏休みや冬休みという長期休暇ではない頃合いにも、前触れもなく木曽の屋敷へ来たことがたまにあった七郎次は、だが。そんな時は妙に…微妙なことながら、どこか落ち着きなく振る舞ってもいたものであり。後から判ったのが、勘兵衛の“お務め”の関係でこちらへ避難させられた彼だったという段取りで。

 『こんなでは、案じられてもしょうがありませんよね。』

 万が一にもという危惧をされた身を、情けないと歯痒がって見せてのその実、不安で不安でしょうがないのを隠すため。道場に足を運んでは久蔵や師範を相手に鍛練を積んで、気を紛らわせていた彼を知っている。

 「…。」

 どこのどなたかは揃えられたデータの上で知っていても、どんなお人かまでは全く知らない初見の誰かや。誰にとってのどれほどの価値があるのやらと、ついつい目許を眇めてしまうよな、ただ一枚の紙きれというよな代物を。楯になること辞さぬ覚悟で、その命を張ってまで護らねばならぬ事案もザラな、厳しくも危険なばかりのお役目を。その生まれから定められていた義務として受け入れ、こなし続けている勘兵衛であり。そして、そんな苛酷な生き方を辞さぬお人を、自分の全てを捧げて添い遂げる ただ一人の御主と決めていた七郎次だから。

 「…。」

 気丈に構えていたって、どんなに慣れた風を装っていたって、実は不安でしょうがないことくらい、蓄積のある久蔵にはお見通し。

 “また一度、クギを刺しておかねばなるまいな。”

 お務めの上とあっては仕方がないが、それでも。不安にさせぬよう、例えば居場所をもっと具体的に知らせておくとか、配慮を考えよと勘兵衛に言ってやらねばと心に留め置く彼であり。

 “大雑把な奴だから。”

 シチがどこまで先読みして案じているのかが、もしやして判らないのかもしれないと、そこのところをいつかこそりと囁いてやろうと企みながら、

 「久蔵殿? 勘兵衛様がお土産ですってよ?」
 「…。」

 おやや、こっちへの的確なお声かけがあったということは、此処に居ること、バレてたみたい。今行くとお顔だけをまずは…玄関の頭上、吹き抜けになったところの天窓から覗かして。家の横手、庭へと回るその取っ掛かりに植えられた、さして太くもないスズカケの、重なり合ってた梢の中に身を置いていた次男坊。此処だけをひょいと見たお人があったなら、何か仕掛けのある忍者屋敷のように思えたでしょうねと、どう考えたって高校生が一人、もぐり込んでの乗っかるには無理のある枝振りへ、こちらはもはや見慣れているらしいお隣りさんが、通りすがりに困ったことだと苦笑した、盛夏の昼下がりのひとこまだったそうな。






  〜Fine〜  08.8.08.


  *Y様、見てますか? ふたたびvv(苦笑)
   先日は美味しい萌え話をありがとうございましたvv
   危険なお務めに出て行かれた勘兵衛様を案じつつ、
   じっと待ってるしかない七郎次さんと、
   勘兵衛様のことも勿論案じているけれど、
   シチさんの身も心配な久蔵という二人でのお留守番。
   成程ねぇ、
   こういう思いやりのそそぎ合いということだって、あるのでしょうねぇ。
   勘兵衛様はしっかりせんと、
   冗談抜きに久蔵殿が、奥方攫って行ってしまいますよ?
   同じ待つならこっちで待たれよとか言って、木曽に帰るときにでも。

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv

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